背振山の歴史

霊峰背振に想いを馳せて

草 創 ~ 背振千坊・嶽万坊 ~

欽明天皇13年(552)、紫雲が棚引く山の頂上に辨財天が降立つと、二頭の給仕の龍が、背を振って喜んだという伝説がある。
この伝説が背振山と称する由縁である。
和銅2年(709)、元明天皇より勅命を受けた湛誉上人(たんよしょうにん)により開山され、山の中腹に「誉朗寺(よろうじ)」が建立された。
のちに筑前国と肥前国に跨り、上宮『東門寺』・中宮『霊仙寺』・下宮『積翠寺』(現在の修学院)の三ヶ所を司寺とした背振一山が形成され、数多くの寺坊が散在する大伽藍地【背振千坊(せふりせんぼう)・嶽万坊(たけまんぼう)】と称され、比叡山・高野山・英彦山と並ぶ「山岳仏教の聖地」として栄えた。

※昔は背振山の山頂付近を御嶽(おたけ)。御嶽から蛤岳(はまぐりだけ)を経て東の方一帯を背振(せふり)と呼んでいた。御嶽を上宮『東門寺』、背振を中宮『霊仙寺』、背振の麓を下宮『積翠寺』と呼び『背振三千坊』ともいわれていたという。

盛 衰 ~ 太閤秀吉の検地 ~

伝教・弘法・慈覚・智証の諸大師や性空・皇慶・栄西といった数々の名僧智識が入山修行され、筑前と肥前にまたがる大伽藍を誇ったが、数々の戦乱の中で盛衰を繰り返しながら寺領を徐々に失い、寺坊の維持が困難となり衰微していった。
さらに天正年中、太閤豊臣秀吉の検地により寺領は没収され衰亡し、衆僧も四散し、背振一山は荒廃した。わずかに霊仙寺内の水上坊と五戒坊、乙護法堂を残すのみとなった。

復 興 ~ 中興『仁周法印』~

幸いにも水上坊に住した仁周(にんしゅう)法印と五戒坊の玄純僧正により、背振の法灯は絶やすことなく守り続けられていた。
仁周法印は、天正年間に鍋島家に仕え、使僧として活躍し、秀吉公に英才を認められ、鍋島直茂公(佐賀藩祖)より厚い信任を得た。文禄2年(1593)直茂公が秀吉公に従いて朝鮮に出兵の間、政治・軍略の知徳を所望され佐賀城の留守居役を任された。毎日、水上坊より五十里を鹿毛の名馬に乗り無事任務を果した。
直茂公の助力を得て慶長元年(1596)上宮に弁財天堂を建て、中宮に水上・多聞・土橋・石上・中谷・香善・萬善・北谷・道場・五戒の十ヶ坊を再興し、慶長5年(1600)には下宮の積翠寺が再興される。
積翠寺に京都の曼殊院門跡(皇族)より『修學院』の院号を賜り、これより積翠寺を修学院と称し、背振一山の中心も中宮の霊仙寺より下宮の修学院へと移行していく。
直茂公は、修学院維持の為に百五十石の寺領を寄進し【肥前国(佐賀県)の鬼門除け・安穏祈願寺・三密祈願道場】と定め、仁周法印は中興第一世となる。
慶長15年(1610)修学院は曼殊院門跡の筆頭末寺となる。(現在は天台宗比叡山延暦寺末)
以降は、鍋島家親族により代々住職を継ぐ事となる。第二世には比叡山妙音院より快舜僧正(鍋島家親族)を招き、背振一山の総住持職とした。
慶長5年以降、鍋島家の庇護のもと背振一山は維持されてきたが、藩政時代の終焉とともに明治4年(1871)住僧も山を下り衰微する。
明治8年(1875)背振山護持の為、安禅寺(末寺)より坂本地区の檀徒を修学院に編入する。
現在も開山以来1300年余の法灯は、下宮の『修學院』で護持継承されている。

『背振山』と『脊振山』のどちらが正式な表記か?古文書や遺物には全て『背振山』と記されている。しかしなぜ、【背】を【脊】と表記されるようになったのか。これは、近年(昭和)になって地図などで『脊振山』と誤表記されたのが元になっているものと思われる。よって、寺院の山号としては『背振山』が正式な表記です。

略 年 表

  • 和銅2  (709)  元明天皇の勅命により湛誉上人が『背振山』を開山。山の中腹に 『誉朗寺』を建立して開創とする。
  • 延暦23 (804)  最澄上人、入唐求法の折、海上安全祈願のため背振山に入山。
  • 延暦24 (805)  最澄上人、中国より帰国後、顕密弘通の為に中宮に講堂、龍樹堂、乙天の宮殿を建立。下宮に薬師如来を彫刻し安置する。「谷山薬師」
  • 天暦1  (947)  性空上人が入山し、多くの坊舎を再建。「法華経」読誦にいそしむ。
  • 康保3  (966)  性空上人、背振山を起ち、書写山円教寺を開創する。
  • 長保5 (1003) 皇慶阿闍梨が入山し、一夏修行する。
  • 康治1 (1142) この頃、修行法として如法経書写の参籠行が盛んにおこなわれていた。(経筒出土)
  • 仁安3 (1168) 栄西上人、宋(中国)より無事帰国し、背振山に御礼参りに訪れる。この時、背振の修験僧琳海と会い「四種曼荼羅」について問答する。
  • 建久2 (1191) 栄西禅師、中国より「臨済禅」と「茶の種」を持ち帰る。持ち帰った「茶の種」を霊仙寺の岩上坊(石上坊)に播く。『茶樹栽培発祥地』
  • 建治2 (1276) 源知なる人物が「三重層の石塔」を背振山へ奉納。※源知とは松浦党に関する人物ともいわれる。
  • 正安2 (1300) 法橋長印「法橋長印置文案」(修学院 蔵)を記す。※「法橋長印置文案」‥‥肥前・筑前に跨がる一山組織のうち、一部の姿が窺える。
  • 正和4 (1315) この頃より内部紛争がしばしば起こるようになり、一山組織は弱体化する。
  • 康暦2 (1380) 南北朝の戦乱のなかで、武士勢力に寺領を奪われ、九州探題の今川了俊に訴える。今川氏の庇護によって背振山は保護される。
  • 応永2 (1395) 新しい探題として渋川氏が赴任するが、この間に背振山は衰微してゆく。
  • 永享9 (1437) 少弐氏の保護を受けていたが、大内氏に中心的寺領である筑前の横山六十三町を奪われる。残りわずか十一町五反となり、講堂をはじめ諸建造物の修復できず疲弊する。
  • 文明10(1478) 背振山政所坊は大内氏に太刀百疋を献上して横山六十三町の返還を願う。
  • 文明16(1484) 東弾正少弼尚盛、多聞坊円秀の懇願によって背振山衆徒に坂本の地を安堵する。翌年には水上坊に柳島村と坂本の内、坊地2ヶ所を安堵する。
  • 長享3 (1489) 上宮東門寺の経所より出火、寺歴に関する重要書類を焼失。
  • 享禄2 (1529) 寺領が十一町五段しかなく経済的に困窮し、徳政を二度要請する。徳政令により借用した米や銭、借金抵当の質物や売却した土地が返還される。
  • 天文20(1551) 陶晴賢、背振山に脇山の十二町の土地を安堵する。大友氏勢力が筑前・肥前に進出し、脇山の寺領は小田部宗雲に奪われる。
  • 天正9 (1581) 鍋島家に仕えた仁周法印は鍋島信生(直茂)の命で秀吉への使僧として二度派遣される。検地による寺領没収で背振山は衰亡。かろうじて、水上坊・五戒坊・乙護法堂は残る。
  • 文禄2 (1593) 鍋島直茂公、秀吉に従い朝鮮出兵の間、仁周法印に佐賀城の留守居役を任せる。 ※水上坊より佐賀城まで毎日往復して留守中の政治の安否を確かめた。
  • 慶長1 (1596) 鍋島直茂公の助力を得て、上宮岳に東南の霊仙寺に向けて弁天堂を建立。中宮に水上・多聞・土橋・石上・中谷・香善・萬善・北谷・道場・五戒の十ヶ坊を再興。
  • 慶長5 (1600) 下宮・積翠寺を再興。曼殊院門跡(天皇家)より『修學院』の院号を賜り、仁周法印を中興第一世とした。直茂公は修学院維持のため坂本村・松隈村の二十六町六反を寺領として寄進。※直茂公は修学院を佐賀城の鬼門に当たるとして国家(肥前国)安穏の祈願寺と定めた。 ※修学院と十ヶ坊で背振一山を構成し、十一院坊それぞれが年行司役を交代で勤めた。
  • 慶長10(1605)  4月18日仁周法印没。
  • 慶長15(1610) 鍋島勝茂公の曼殊院門跡に対する誓約により修学院は曼殊院門跡の筆頭末寺となる。 第二世に比叡山妙音院より快舜僧正を招き、背振一山の住持職とした。※快舜僧正‥‥比叡山の擬講。鍋島家の親族。
  • 寛永2 (1625) 玄純僧正の偉功で五戒坊は寺領一町、加増五十石と社地一町を与えられ東照宮を建立。五戒坊に「東福院」の院号を比叡山より給わる。
  • 天和1 (1681) 長賀法印、東福院末寺として東光寺を開基する。
  • 元禄10(1697) 多聞坊を上宮に移転。
  • 正徳2 (1712) 上宮強風の為、多聞坊を一の谷に移転。
  • 嘉永5 (1852) 十代藩主鍋島直正公が「乙護法堂」を再建。
  • 明治1 (1868) 神仏分離令により全国的に廃仏毀釈運動が起こり、打撃を受ける。 
  • 明治4 (1871) 廃藩置県で鍋島家の庇護を失った背振一山は、さらなる打撃を受ける。霊仙寺に最後まで残った住僧、順信和尚も下山し、修学院へと移る。
  • 昭和21(1946) 戦後、GHQの農地改革により寺領の大半を失う。
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